the fantasia of silfade






 それは、幻想の名を戴くもう一つの物語。

 それは、のちの歴史には語られない物語。

 

 ――それは、幻想の終わりの物語。







この世界には、三つの英雄伝承歌《ヒロイックサーガ》がある。

 災厄に震える人々の前に降り立ち、精霊の力をもたらした一角獣の女神の物話。

 女神に与えられた武器を携え、暴虐を働く魔王を滅ぼした剣聖と賢者たちの物話。

 

 そして、五百年に渡る竜人と人との争いを終わらせ、世界に平和を取り戻した、一人の若者の話。

 誰もが知るその物語。けれど名もなき英雄のその名は、伝わっていない。







 かつて一角獣の女神が降り立ち、精霊の力が人に与えられて千年。

 人と竜人は和平を結び、共存の道を歩み始めた。

 言葉が交わされ、思索が続き。ときに不穏の火種がくすぶるも、時代時代に生まれたものたちは、争いよりも平穏を選び取り。いつしか隣に在る事が当然の、隣人として。苦難の折には助け合う、同胞として。互いに互いを認めるようになった。

 平和が続き、数多の命が為され、国は拡がり――そうして、決壊の音が響き始める…。







「時が来た、ということでしょうか……」

 確信と、哀しみのこもった呟きが、その紅唇から零される。

 ゆるやかに波立った碧の髪、額に戴く真紅の宝玉と同色の、赤の双眸。陽に当たることを知らぬ白磁の肌。もし『精霊憑き』の素質がある者がその場にいれば、その身に宿る尋常ならざる『力』にも気付いただろう。

 しかし、その場には彼女以外誰もいなかった。

「――《三柱神》と称されたモノの内、白竜神は既に滅び…その後継たる私も封じられた。なら、あの方はきっと同じことを繰り返す。自分の世界を、護るために」

 悲痛と、やりきれなさと、喪失感に苛まれた表情で。



「どうかお願い…もう、あんな悲劇を繰り返さないで下さい――リクレール様」



 誰にも届くことのない懇願が、ゆらり、と赤の双眸を揺らした。











 ……たい、痛い、 痛い、 痛い…!!



 泣き叫び懇願しても、殴打は止む気配を見せない。何度も何度も、執拗に、衝撃が加えられる。

 痛覚は半ば麻痺し、意識も朦朧としている。自身の酷い有様に、ふと淡い思考が頭を掠める。



 ――これで、死ねるだろうか。今日で、終わりになるだろうか。



 そうなってしまってもよかった。何故生きているのか、何故死なないのか。何度も言われた。おまえがバケモノだからだ。何度も繰り返し繰り返し焼き付けられた。明確に拒絶された。お前なんか死ねばいい。生まれた時から言われ続けただろう言葉。誰もおまえなんか要らないんだから、早く死んで。「あの人」はいつもそう言って殴った。鬱陶しいから、私の前から消えて。何も言わない時でさえ、瞳がそう訴えかけた。

 要するに、この人は自分が嫌いなのだ。殺したいぐらいに憎いのだ。

 …だったらそれでいいと思った。生きたいなんて思わない…もう、疲れていた。



しかし自分の思いとは裏腹に、口からは悲鳴が漏れる。懇願が飛び出す。



 …痛いよ、やめてよ、おかあさん・・・!!



 ふっ、と――ー殴打が、止んだ。

 え、と。腫れ上がった顔を上げる。そんな馬鹿な――「あの人」が自分の言葉を聞くなんてありえない。そんなことはとうに諦めていた。否、自分という忌まわしい存在について諦めていないことなんてない。だけど。

 僅かに、裏切られてもいいようにほんの小さく、希望を抱く。さっき刹那抱いた願望とは真逆の希望。

 もしかしたら。もしかしたら。もしかしたら。

 頭の中を、その言葉だけがぐるぐると回る。



 ――いま、なんて言ったの……?



 え、と今度は口に出してしまった。さっき自分の言ったことを思い返した。

 何度も殴られたせいで血の上っていた顔から、血の気が引いていくのがわかった。

 自分が最悪の失敗をしたこと――禁句を発してしまったことを悟る。



 ――わたしの人生を滅茶苦茶にした化け物の癖に、なんて言ったかって聞いてるのよ!



 自分のあまりの失態に硬直して、激しさを増すだろう折檻を待つ。…わかっていたことだった。この人は「自分の人生をズタズタにした化け物」が憎くて仕方ないのだ。殺したいほどに。



 ――おまえがいたから。おまえのせいで。



 いつも、子守唄代わりに聞かされてきた呪詛。浅い眠りと言う僅かな平穏をすら侵食してきた、嫌悪と侮蔑に満ちた言葉。…それにさえ、今は慣れてしまったけれど。



 首に、手のかけられる感触。



 抵抗しようなんて気は全くなかった。逃げ場など元々ないのだから、抵抗したところでなんになるというのか。

 …居場所など何処にもないのだから、生きていたところで…否、死なないでいたところで、いったいなんになる…?

 ――そう、頭では思っているのに 。

 なのにどうして、自分の腕は見苦しくもがこうとしているのだろう。ぎりぎりと締め付ける圧力を前に、どうしてこの肺は空気を求めてあえぐのだろう。生きようなんて思っていないのに。早く死にたいのに。

 ――自分の名前を呼んでくれる人なんて何処にもいないのに。

 どうして自分は、誰かに『助けて』なんて言葉を放っているんだ…?



 …や、だよ…かあさ…っ !

 もがく。目の前にあるのは『あの人』の無表情な顔。長年抱え続けた憎悪と怨恨に醜く歪んだ、幽鬼のような顔。



 ――死ね、化け物。



 小さく、頬を歪めて嗤うその姿に、

 もうなにもかもを、諦めて、手放そうとして。

 けれど相手の右手に握られている鈍い煌き見てを見て、また希望を抱く。



  『        ねぇ、     おかあさん         』



 彼は、自分の左胸に短刀が振り下ろされるその刹那



                                          『     この《心臓》が無くなったら。



 もはや夢とも呼べない淡い幻想を抱き

          

 『 愛 し て く れ る ? 』

       

 ――そして、打ち砕かれた。







 打ち砕かれた幻想はそのまま自分を貫き縫いとめる楔になって。

 自分の作りあげた檻の中、ただ呼吸をするだけの死骸となって彷徨い続けた。



 何かを望んだりは、もうしないと決めた。

 だから、手を差し伸べられた時。

 どうしてその手を取ってしまったのか、彼にはわからなかった。








 2. 伸ばした手に応えた声

 


 ポゥ、とその場に輝きが生まれた。



「――ご苦労様でした。首尾はどうでしたか?」

 突然現れたその光の球に動じる風もなく、少女はそうねぎらいの言葉をかけた。

 造り主の意に応えて、光の球は集めてきた情報を彼女に開示する。

「…そうですか」

 それを受けて、少女は重い重いため息をついた。

 腰ほどまである白銀の髪に、海を思わせる深蒼の眸。外見だけなら常人となんら変わらぬその容姿を異質なものにしているのは、その額から突き出た純白の角と、人には深すぎる叡智を湛えた双眸。

 十代半ばに見えるその少女の表情には、年相応の幼さはない。長い年月を経た老人のような、達観と重苦しさの入り混じった沈痛な表情だった。

「状況は、思った以上に悪化している…約束された世界の崩壊が近づいている。あの時ほど差し迫ってはいませんが、危険度ならばあの時をも凌ぐでしょう。その上わたし達に打てる手は限られている…」

 少女の呟きに応じてか、光の球がちかちかと瞬いた。

「…そうですね、深刻な時に深刻な顔をしているだけではなんにもなりません、よね…」

 弱弱しい笑みを浮かべて、光の球の励まし(?)に応じる。

 ――地上に遣わしていた精霊たちからの報告はことごとくが否定的なものだった。この状況で能天気に笑えるような人格の持ち主なら、それはそれで問題なのだろうけれど。

「……もう、手段を選ぶ余裕は、ありません」

 瞑目し、表情から弱々しさを消し去って、毅然と告げる。



「――《意識の海》より『運命の転換者』を招聘します」



 それは『神』のみが行える禁忌の法。世界の理に反した異物を招きいれ、世界の在るべき姿を侵す、赦されぬ大罪。この世界では彼女のみが行えるだろう秘術。

 彼女の名はリクレール。この世界においてもっとも永い時を生きてきた存在であり、全ての精霊を統べる一角獣の加護を受けし異形の女神。

「…はじめましょう」

 両の瞼を閉じ、精神を《集中》する。

 極限まで高められた精神力と与えられた異能だけが拓くことのできる、『その場所』への扉。全ての運命が生まれ還って行く場所。世界の理の外に在る、すべての理が生まれる場所。

 瞼の裏で光が爆発し、自分の『意識』がその場所に再構成される――。



――『接続』完了。



 暗く、どこまでも広がる、まるで子宮の中にいるかのような、あたたかさを持った闇。身を浸せば執着も意志も全て溶かされて、そのまま真っ白になっていきそうなほどの深さを持った場所。

 ある者が混沌と呼び、またある者が根源の渦と名づけ、そして自分が意識の海と呼んでいる場所。

(……またこの場所に来ることになるなんて…思いませんでしたね…)

 正確に言うなら、もうこの場所には来たくなかった、か。

(…ぐちっても仕方ありません。急がないと…)

 自分の力をもってしても、ここにあまり長居はできない。早く、条件を飲んでくれる『意識』を見つけなければ。そのためには、できるだけ《海》の表層近くで『意識』を見つける必要があった。深層にもぐってしまった意識には肉体への執着どころか自意識さえ曖昧なため、新しい無垢な命を作る場合はともかく、今の自分の目的には合わないのだ。

 自分の『眼』を、周囲に向ける。方向感覚などなにもないここでも、リクレールは周囲にある『意識』を感じ取る事ができた。

(――見つけた)

 おそらくは異物である自分に触発されて寄ってきたのだろう、いまだに『形』をとどめている『意識』を近くに見つけた。

 この意識の海では、形をどれだけ保っているかがその『意識』の自我の強さを測る指標になる。これだけの強さを保っているなら、交渉できるだろう。 



 そう考えて、その漂う『意識』に手を伸ばして、呼びかける、



 意識の海に漂う、そこのあなた………



(――――!!?)



 その瞬間、



『          ット  ――  生   ―― タ  ―― 』



 ビリビリと、叩きつけるように、荒れ狂うように、凄まじい『意思』が自分の意識を殴りつけた。



『――……ット…・・・生キタイ……モ・・・ット――』



(…な――、こ、これは――!?)



 触れ合ったその場所から伝わってくる、強い渇望。意志というほどに明確な形も持たない、確かな言葉にもできない、なのにこんなにも強い原初の叫び。誰に向けたわけでもない叫び、向ける誰かさえもいないこの場所で、女神である自分さえこんなにも揺さぶる激烈な力。



 『     生 キ ー ー タ イ 、モッ  ト   ――  』



(…この、子…)

 実体を持つ自分はともかく、《意識の海》では肉体も何もあったものではない。だからここから誰かを引き揚げる時は、まず性別から聞かねばならないほどだというのに――どうしてかリクレ−ルには、この『意識』が、小さな子供のものだとわかった。



 たった独りで、この暗い昏い闇の中、助けを呼べる名前さえも知らずに、泣いている、子供のような――。



 【…生きたいですか…?】

 ――気がつけば、そう呼びかけていた。

  【…生きていても、楽しいことなんてないかもしれません。辛いこと、苦しいこと、泣きたくなること、涙さえ出ないことが、きっと沢山あるでしょう。楽しくても、幸せでも、それらは時間と共に移ろっていき、そしていつかは永い眠りにつかなければなりません。それでも、――生きたいですか…?】

 触れた『意識』が、驚きに身を強張らせたのが伝わった。

 構わずに、何かに急かされるように、『言葉』を紡ぐ。

 【…このまま、苦しいことも辛いこともなく、眠ってしまってもいいんですよ?輪廻の輪が、理に従って、あなたに新たな生命の息吹を吹き込むその時までの、穏やかな眠りに。それでも、理に反してでも、生きたいと願いますか?】

 触れた『意識』から驚きが消えて。



『…おねえちゃんも、悲しい事があったの…?』



 そう伝わった『言葉』に、今度こそ、驚愕で身体が動かなくなった。

(な……)

【――悲、しい…?】

『おねえちゃんの言ってること、よくわかんないけど…痛いって、つらいって、つたわるよ。どうして?ぼくが生きたいって、おもうのは、「我儘」だから…?』

【ち――違います!!あなたが何かを恥じる必要なんてありません!!恥ずべきは、わたしの、方です…】

『……?』

【…も、もしあなたが望むなら、わたしはあなたに新しい身体を与える事ができます。交わされる言葉を知る力と、わたしの創り出したトーテムをその身に宿すことで、普通の人たちとは比べ物にならない力を身に付けることができるでしょう。――でもその身体は理に反したもの。長く生きることは……叶わないでしょう。それでも……生きたいと欲しますか?】



 それは、悪魔の取引にも似た卑劣な提案だと自覚していた。 

 それでも。



『…――どのくらい、生きられるか、知らないけど…また、「あの人」に、殺されるかもしれない、けど――いき、たい…!!』



【…そう、ですか。――では、あなたの名前を教えてください】

 そう聞くと、思ってもみなかったことを聞かれたように、『沈黙』の気配が返ってくる。そして、

『…バケモノ。クズ。まざりもの。被験体0771。できそこない――』



 途切れずに続く単語の群れに、絶句する。

 それを『自分の名前』だと思わされるような。

 そんな言葉しか『名前』と呼べるものがないような。

 そんな場所で、この子は生きていたのか。

 そんな場所で、この子は、死んだのか――?



 【も――もういいです!!それは名前ではありません!!】

 たまらずに遮った。

 『………』

 さっきとは違う、沈鬱そうな沈黙の気配。

 【…あなたには、名前がないのですね――では、わたしがあなたに名前をつけましょう】

 しばし思考する。なにがいいだろうか。五百年前はネーミングセンスがないとかクロウ達に散々叩かれたから、この子供に思いついた名前をぱぱっと付けるのは躊躇われた。

 ふと、記憶の底にふさわしい単語を見つけた。

(…でも、この、名前は――)

 わずかに、ためらいを覚える。ふさわしくないからではなく、逆に。 

 自分が彼に負わせる役目を思えば、――あまりにも。

 自分がこの子供を、道具としか見ていないと言っているようで。

 神と人とが交わした契約の果てを、無関係なこの子供ひとりに背負わせるのだと言っているようで。

 ――いや。

 わたしのしていることは、そういうことだ。

 【…あなたの名前は――アーク。これで、いいですか?】

 名を持たない子供に、罪の証のように、その名を告げる。

 『…?それ、ぼくの、名前?』

 何も知らない子供に、罰を下すように、その名を与える。

 【ええ。あなたの、――あなただけの、名前です】

 すべてを知りながら、なにも出来ない神として。

 『――ぼくだけの、名前……』

 わたしの罪も罰も、わたしの腕に応えたあなたに委ねよう。

 

 【もう一度だけ、聞きます。あなたは、理に反した命を、欲しますか?】



 『…ぼくは――』





 『――生きたい!!』

 



 溢れた『意志』が、形を成して、新たなる運命を形作る。

 それは理の外より生まれた運命。それゆえに、不条理という世界の理を断ち切りうる可能性の一つ。

 心を亡くした少年は、生きたいと望んだ。

 差し伸べられた手を取り、安息の眠りより目覚めて。

 そしてその時から、語られぬ英雄の物話が動き始める――





 3. 差し出された、その手の先に



 ――あたたかな、闇があった。

 まるで粘性を持った液体のように、昏(くら)く深い闇だけが自分の感じられる世界の全てだった。

 見渡す限りに――といっても実際に視覚があるのかもわからない――黒い闇が広がっているため、上下左右といった方向の感覚がない。背を丸めてひざを抱えているような感じもするが、そもそも自分に身体があるのかもわからない。それを言えば、自分が本当にここにいるのかも怪しかった。何もかもが曖昧模糊として、つかみどころがない。

 何かを考えようとしても、闇のあたたかさにほだされるように思考が淡く消えていく。感覚も思考も記憶も、『自分』という枠組みさえも、たとえるなら分厚い毛布に包まっているかのような安らぎの前に溶けて、緩やかに消えていく気がした。



 …こんな気持ちになった事が、これまであったろうか?



 他にすることなどないから、たいていは眠って一日をやり過ごしていた。けれど唐突に浴びせ掛けられる罵声と、振るわれる暴力に身体が勝手に警戒してしまい、ぐっすり眠ったことはなかった――何時間も続いた殴打に意識を失ってしまった時を除けばだが。

 何度思っただろう。勝手に防衛反応を取る身体を恨めしく思って、一度でいいからゆっくり眠りたい、と。そして叶うなら、安らかな眠りに捕われているうちに苦しめずに殺して欲しい、と。

 この場所がどこかはわからないが、ここには自分の望んだ全てがあった。もう「あの人」に呪詛を浴びせられてうなされることはない。包丁をこちらの首筋に突きつけている気配で起きてしまうこともない。引きつった作り笑顔で猛毒入りの料理を差し出され、狂喜して食べるような惨めさも味わわない。

 やっと、自分にとって牢獄でしかなかった『世界』は自分を解放してくれた。後はもう、何も気にせずに、安らかに眠ってしまえばいい――。



 ――だというのに。



 どうして自分はこんなにも足掻こうとしているのだろう。せっかく与えられた安息を破るように乱すように、必死にもがいているのだろう。この安息を拒絶したら、世界が示してくれた慈悲を踏みつけにするような真似をしたら、もう自分はどこにも行き場なんてありはしないのに。目を覚ませばまた「あの人」がいるのかも知れないのに。またあの幽鬼のような凄絶な表情でどうして死なないのかと詰られるのが関の山なのに。

 これまで自分の知らなかった安寧と平穏を打ち壊そうとするなんて愚かしい真似を、どうして自分はしているのだろう。

 そう、徐々に消えていく意識の端で思っていた。



 ――そこに光が現れて、自分の全てを覆う前は。

                 

                      ◆



 その光がいつ現れたのか、正確にはわからない。

 (――)

 ただ、『それ』の存在を知覚した時、このどこまでも心地いい闇とは相容れない『光』を望んだときに、貫かれるような衝撃を覚えたことはぼんやりと覚えている。

 望んでいたのに消えることを拒んで、恐れていたのにその光に惹かれて。ただひたすらに、その輝きに手を伸ばそうとした。

 だけどまとわりつく闇の心地よさに引きずり込まれて、必死に足掻いたけどその光には届かなくて、とうとう安らかな眠りに身を任せそうになった時、

 

 たおやかな白い腕が、こちらに向かって伸ばされて。

 

 『 …意識の海に漂う、そこのあなた……… 』

 

 その手が自分の『意識』に触れた時、はじめて、その人の姿を、見た。



 「                ――  ー  ー          !!」



 …なにかを言っただろうか。何かを叫んだような気がする。何も言わなかったような気もする。

 自分が光だと思っていたものは、輝きをまとった女のひとだった。

 はじめて見るその人は、自分がこれまで見た事もないほど真っ白な髪をしていて、とても綺麗な色の眸をしていた。おでこのあたりから髪の色とは少し違った色をした角は、他の人たちとは少し違っていたようだったけどよくわからない。正直そんなことはどうでもよく、この場所に誰かがいることに驚愕していた。否、この女の人が、この自分に手を差し伸べたそのことが何よりも深く自分の意識をおののかせていた。

 彼女はこちらを見て、ただ驚いたように目を見開いていた。こちらをどうしていいかわからないというかのように。

 やがてその表情が自失から覚めて、――かわりに、少し悲しそうな、痛みを堪えているような表情になった。

 『…生きたいですか…?』 

 柔らかに響いたその声も、表情と同じに悲しげだったけど、とても綺麗な声だった。

 話し掛けられるとは思っていなかったから、驚きで身がすくんだ。正確にはその感覚があった。

 『…生きていても、楽しいことなんてないかもしれません。辛いこと、苦しいこと、泣きたくなること、涙さえ出ないことが、沢山あるでしょう。楽しくても、幸せでも、それらは時間と共に移ろっていく。そしていつかは永い眠りにつかなければなりません。それでも、生きたいですか…?』

 泣いてしまいそうになるのを必死に堪えているような、そんな声だったけど、綺麗だった。 

 だから。

 『…このまま、苦しいことも辛いこともなく、眠ってしまってもいいんですよ?輪廻の輪が、理に従って、あなたに新たな生命の息吹を吹き込むその時までの、穏やかな眠りに。それでも、理に反してでも、生きたいと願いますか?』

 言っていることはよくわからなかったけど。泣きそうな声だったから。

 きっと、楽しくて笑っている時は、もっとずっと綺麗な声だろうと、思った。

 だから、勇気を振り絞って、『声』をかけた。



「…おねえちゃんも、悲しい事があったの…?」

 ――

 意表を突かれたような、酷く驚いた顔をされた。

 『――悲しい…?』

 さっきよりずっと驚いている顔に、言ってはいけないことを言ったのだろうかとぞっとして、けれど必死に言葉を繋いだ。

 このひとが悲しいと思っているのなら、自分には何かできないだろうかと。

「おねえちゃんの言ってること、よくわかんないけど…痛いって、つらいって、つたわるよ。どうして?ぼくが生きたいって、おもうのは、「我儘」だから…?」

 自分が何か言うと「あの人」はいつも我儘を言うといってひどく折檻した。お母さんと呼んだときはもっと酷く殴られたけど。

『ち――違います!!あなたが何かを恥じる必要なんてありません!!恥ずべきは、わたしの、方です…』

「……?」

 どうやら怒っているわけではないらしいと安心したけれど、この人が何を悲しいと思っているかはわからなかった。

 『…も、もしあなたが望むなら、わたしはあなたに新しい身体を与える事ができます。交わされる言葉を知る力と、わたしの創り出したトーテムをその身に宿すことで、普通の人たちとは比べ物にならない力を身に付けることができるでしょう。――でもその身体は理に反したもの。それでも、生きたいと欲しますか?』

 ことわりにはんしたもの。

 よくわからない言葉だったけど、「父親」がなんだか似たような言葉を使っていたことを思い出して、なんとなくだけど意味がわかった。

 …つまり。自分が生きるということは、いけないことなのだ。

 いけないことだとわかっていて、それでも生きたいのかと聞いているのだ。

 いけないことをしたら相応の罰を受ける。



 どんな事になるかはわからない。「あの人」から受ける折檻よりもずっと酷い罰かもしれない。きっとそうだろう。自分みたいなモノが不相応な望みを叶えるのだから。

 ――それでも。



 またすぐに殺されるかもしれない。命がそれだけではどれほどに無力で無価値か知っている。

 ――だけど。





 「…――どのくらい、生きられるか、知らないけど…また、「あの人」に、殺されるかもしれない、けど――いき、たい…!!」



『…そう、ですか。――では、あなたの名前を教えてください』

 思いがけない事態に、頭が真っ白になった。

 …名前?

 なんと言えばいいだろうか。なまえ?モノを呼び表すことば、だよ、ね?

 「あの人」はこちらを指してよく脈絡のない単語を口走っていたけど、それではないという気がする。というか沢山ありすぎて覚えていない。

 なら「父親」は?彼はときどき酷く神経質になってこちらを怒鳴りつけたり足蹴にしたりしたけど、大体の時は放っておいてくれた。死なないようにと食事を支給もしてくれていた。

 あの人はなんと自分を呼んでいたろうか。

「…バケモノ。クズ。まざりもの。被験体0771。できそこない――」

 思い出した単語を羅列していく。女の人の綺麗な顔が、衝撃を受けたかのようにゆがんだ。

『も――もういいです!!それは名前ではありません!!』

 …違ったらしい。自分は間違ってしまったのか。この人も自分を嫌いになるのだろうか。そう思うと思考が鬱に沈んでいった。この人は綺麗で、優しそうだったけど、やはり自分では駄目なのだろうか。またバケモノと排斥されるのだろうか――。

『…あなたには、名前がないのですね――では、わたしがあなたに名前をつけましょう』

 物思いにかまけていたせいで、言われたことの意味が、とっさにはわからなかった。

 いや、言葉自体は難しくなかったから意味はわかる。だけど。

 (…ぼくに?名前を?)

 …そんな、ことは。



『…あなたの名前は――アーク。これで、いいですか?』

「…?それ、ぼくの、名前?」



 今まで、誰も、してくれなかったのに。



『ええ。あなたの、あなただけの、名前です。』

「――ぼくだけの、名前……」



 …なんだろうか、これは。



『もう一度だけ、聞きます。あなたは、理に反した命を、欲しますか?』



 頬を、何かが伝っていく感触がする。



「…ぼくは――」



 なにをされても、こんな風に、泣いたことは、なかったのに。



 わけがわからなくて、胸がつまって、耐えられなくて、思いっきり、『意志』を持って、叫んだ。





「――生きたい!!」







――いまだ知らぬ困苦と苦難のみがその道を待ち受けると知りながら、抱きとめる安息の腕(かいな)は拒まれ、人は道を歩き出す。

彼の者の先にあるものを、このとき知る者はない。

しかし、叶うなら。

どうか彼の者に、精霊の加護のあらんことを。






 4. 金色の獅子と女神の願い



 気がつくと、そこは見た事もないような場所だった。

 身を起こして、あたりを見回す。

 生い茂る植物に、静かに佇む木々。やわらかに差す日の光。どこからか虫や小動物の鳴き声も聞こえてくる。牧歌的な風景、といっていいのだろう。あの深い闇とはまた違ったやすらぎに、うとうととまどろみそうになる。

 『――目が覚めたようですね』

 ぼーっと周りの風景を見回していると、笑みを含んだ声が投げかけられた。

「……ふぇ?」

 驚いて背後を振り返ると、闇の中にいた自分に話し掛けてきた、あの女の人がいた。

 腰まである真っ白な髪に、空の底を写したような青い眸。『あの場所』で見たように輝きを放ってはいなかったけど、間違いなくあの人だった。

 『…あなたを連れてこの世界に降り立ったのはいいのですが…あなた、そのまま寝入ってしまって。覚えてません?』

 問いに、首を横に振る。

 溢れた光が意識をかき消して、無明へと堕ちて――そこまでは覚えていた。でもその後自分が何かしたような記憶は全くない。

 そうすると、彼女はおかしそうにくすくすと笑った。

 『…いえ、無事目が覚めたのならいいんです。でもあなたの寝顔本当に可愛くって…』

 肩を震わせる彼女に、困惑する。今まで見知らぬ誰かと接した事がまるでなかったので、どうすればいいかまるでわからない。でも、その表情からあの暗闇で見せたような暗い影は払拭されていたから、良かったと思った。

「…えっと。ここ、どこですか」

 とりあえず、聞いた方がよさそうなことから聞いてみた。

『――っと。そうですね。ではまず、こう言わせて頂きます』



 笑いを収めて、こちらへ向き直る。まっすぐにこちらを見据えて、



『わたしの創り出した世界、《天空大陸》へようこそ――アーク』



 彼女は、花のほころぶような笑顔で、そう言った。



                    ◆



 彼女の説明によると、ここはリクレールが創り出した世界であり、今いる場所はその北東、【王都バーン】の真北に位置する森だという。

 『あなたには、この世界で生きるための力が与えられています。ひとつは言葉を識る力。現在この世界に存在する言葉の殆どを、既に貴方は習得しています。もうひとつは身を護り、あるいは闘う力。あなたの身に宿った精霊――トーテムは、常人を遥かに超えた能力をあなたに与えるでしょう。…出てきてください』

 彼女の差し伸べた指先にふわり、と淡い光が灯った。と同時に、目の前の空間がゆらりと揺らめく。

 場所を譲るように、リクレールは自分の真正面から退いた。

 応えるように、その場所のゆらぎが大きくなって――



 ――現れた『それ』の威容に、知らず驚嘆の声が漏れる。

「……うわぁ」



 風になびくたてがみ。堂々たる体躯。金色のそれは半透明だというのに頼りなさをまったく感じさせず、逆に凄まじい威圧感と内に秘めた力の程を感じさせる。なにより強烈なのは、力のみなぎる金色の双眸――。

 それはまさに、こう呼ぶに相応しい姿だった。

 ――百獣の王、と。



 【――お初にお目にかかる、我が主(マイ・マスター)。我が名はレオニス……って、何すんじゃ!!】



「あ、触れない…」

 とりあえずヒゲを引っ張ろうとしたら怒鳴られた。

【当たり前だトーテムに実体があってたまるかボケ!何考えてんだお前は!】

「…あ、う、えっと、その、ごめんなさい」

『その辺にしてあげてください。アーク、レオニス。あなたたちには、やって欲しい事があります』

 その声で驚きから覚める。

「やって欲しいこと?」

 そういえば、リクレールがどうして自分に身体を与えたのか知らないことに気付いた。

 彼女は自分に何かをさせようとして、自分をあの暗闇から引き揚げたらしい。

 その事実になぜか胸の痛みを覚えて、けれど同時に安堵もする。自分は、彼女の役に立てるのだと。

 『…はい。今この天空大陸には、滅びの危機が迫っています。それが具体的に何かはわたしにもわかりませんが、人類や竜人といった枠組みを超えての、大きな災厄が――』

 その言葉を受けて、獅子が深々と嘆息する。

 【要は我らにその災いとやらを止めるなり、調べるなりして欲しいということか?】

 『その通りです。――これが身勝手な願いであることはわかっています。あなたたちがこの世界で何をして、何を望むか…それはあなたたち次第です。ですが叶うならどうか――お願いします。わたしに、いえ、この地に生きる全ての人たちのために、力を貸してください』

 災厄。人類。竜人。聞いたこともない単語が次々と出てくるというのに、その意味がわかる。

(あれ、なんで?)

 首を傾げて考え込む。知らない単語なのに意味がわかるなんてことあるんだろうか。

 【それは我の決めることではないが……お前、話聞いてないな全然。何を考え込んでるんだ】

 物思いから覚めると、金色の獅子は呆れた顔で視線をこちらに向けていた。人間でもないのにとても表情が豊かだ。

 「あ、なんていうか、知らない言葉なのに何言ってるかとかがわかって。不思議だなって」

 『それはあなたに与えた言語判別の力の作用です。今なら理解不能な専門用語でも、苦もなく理解できますよ』

 「…そうなんだ。リクレール」

 『なんでしょう』

 さっき彼女がそうしたように、まっすぐに、リクレールを見据えて、 

 「僕に何ができるかわからないけど、…僕にできる事だったら、やるよ。必ず」

 頼まれるまでもない。この身体もここにある精神も彼女なくしてはありえないものだから――もしこの身で、彼女を助ける事ができるなら、必ず。

 意表を突かれたように蒼の双眸が見開かれて――少し悲しげに、彼女は微笑した。

 『――ありがとう』



 ごほん、と咳払いが起きる。

 【…それはまぁいいが、我らは具体的に何をすればいいのだ。何のあてもなしでは何もできんぞ】

 『おそらく何らかの異変が現れてくると思います。――まずは情報の収集を。この森を出ると、最寄りの都市――【鍛造都市】サーショが見えるでしょう。まずはそこに寄ってこの世界に慣れることをお勧めします。それから、【法力都市】リーリルにいる竜の賢者、あるいは深海の神殿にいるもう一柱の《神》に助力を請えば、力になってくれるはずです。あるいは彼らなら何かを掴んでいるかもしれませんし…いずれにせよ、彼らの協力を得られれば、大きな助けになります』

 【ふむ…まあそれだけ聞けば十分か。――だそうだ、我が主。どうする?】

 話を降られて、むぅ、とうなった後。

 「…えっと。街に出て、この世界に慣れて、『賢者』さんかもう一人の『神』って人に会いに行けばいいんだね」

 今後の方針を復唱して、うん、と頷く。そのくらいなら自分にもできそうだ。できると思う。たぶん。

 【…えらく自信なさげだな】

 何でこんなのが我の主なんだ、という呟きが聴こえた気もするが聞き流す。

 「そーいえば。僕はその二人に会いに行くけど、リクレールとレオニス…さんはどうするの?」

 そう聞いたら、今度は二人ともに呆れた顔をされた。

 【…レオニスでいい。おまえについていくに決まってるだろう…というか離れたくても離れられんわ。人の話を聞いてないのか?我はおまえのトーテム――お前を守護し、共に道を歩む精霊だ】 

 「うぇ?」

 びっくりする。ということは…

 「『ぷらいばしー』とかそのへんはどうなるの」

 【………。第一のリアクションがそれか…。ある程度の単独行動も可能だから安心しておけ…】

 ほんとになんでこんなのが主に、という呟きは無視する。

 「リクレールは?」

 問うと、しかし彼女は答えることを憚るかのように目を逸らした。その仕草で思い当たる。

 「…一緒に来てくれないの?」

 『…ごめんなさい。わたしは一角獣の誓約のために、この世界への過干渉はできないんです。この世界に降り立っても、すぐにはじき出されることになってしまう…――っ…!』

 言った途端に、リクレールの姿が揺らめいた。その顔が苦痛に歪む――それで悟った。

 彼女は、ここにいることはできない。今ここにいる事だって――相当の無理をしている。もしかしたら命に関わるほど。

 「――リクレール!!」

 せめて最後にと、叫ぶ。



 「絶対、――全力を、尽くすから!!見てて!!」



 『……っ…』

 何かを、言おうとして。

 彼女の姿は、眼のくらむような光と共に、泡が弾けるように消え去った。



 【……もういいか?】

 「…そだね。じゃ、いこっかレオニス」

 ついさっきまで彼女がいた場所をしばし見つめて、踝を返す。

 

 ――その時、アークは森の外を向いていた。

 だから、レオニスがリクレールのいた場所を射殺せんばかりの眼光で睨みつけていることに、アークは気付かなかった。







    

 5. 旅の始まりと巫女の託宣





 ――それは、ずっとずっと昔の話。



 罪を犯した。

 償う方法は、ひとつだけ。



 『ありがとうございます。貴方達のおかげで、この世界は災厄から救われました』



 ときおり、彼女は思う。

 もし自分に、世界に介入する術があったのなら。自分はあの人を召喚せずに済んだのだろうかと。



 『…使命を終えた今、貴方の身体は消失し――その意識は『意識の海』へと還ることになるでしょう』



 そしてもし、彼がこの世界に来なかったなら。

 自分は今も、あの時のように、忘れてはいけなかったことさえ忘れ果て、神として君臨していただろうか。

 

 『最低限のお礼として…最後に、なにか――望みはありますか?』



 答えの出ない思考の中で、思い出す。

 記憶が擦り切れそうなほど、何度も何度も思い出して、また焼き付ける。

 罪を忘れないように。彼を忘れないように。


 どんな罵声より断罪より、自分の罪の深さを突きつけたその言葉と共に。




 《この世界に来れて、本当に良かった。――ありがとう》



 その日、世界はきっと救われたのだろう。

 誰もを苦しめる因果の輪が断ち切られて、誰もが救われた。

 自身の抱く憎悪と絶望に灼かれて、消滅を望んだ白き竜神さえも。

 

 ――たった一人、消えてしまった彼を除いては。



 自分には何ができたのだろう。

 あの人を召喚し、名を奪い、…彼の愛した世界から、その存在を消した自分には。





 罪から目を逸らすことも、罪の重さにつぶれてしまうことも許されない。

 真にそれを償う方法など、ありはしないと知っているから。

 

                            ◆                    



 我が目を疑う。

 そんな諺が一瞬金色の獅子の脳裏によぎり――一瞬で訂正された。

【……………。なんというか、いろいろと言いたい事はあるのだが――】

 いや、疑うのは目ではなくこの常識なしの頭の中身だ、と。

【とりあえず、我はどこから突っ込めばよいのだ?】

 女神から名前を与えられ、つい数時間ほど前にこの世界に降り立った少年は――のんきに野犬の群れと戯れながら、え?と一つ首をかしげた。







 リクレールの話ではすぐ近くにあるはずのサーショの街を目指して数時間が経っていた。

 それはレオニスもそう遠くまでは移動できず、方向感覚その他もろもろが皆無のアークが迷いに迷った挙句もとの森に戻ってきたという数時間でもある。

 もう何をしていいかもわからないし、サーショに行くのは明日にして、とりあえず今日は野宿しよう。

 とうとうサーショにたどり着くことを諦めたアークにレオニスは頷き、――そしてなぜか自分の主人は獰猛な野犬と遊んでいた。



【水を汲みにいくといって出て行ったきり戻らないから、何事かと思えば――何をやってるんだお前は】

 もうこいつが何をしても驚かんぞ、と思いながらレオニスは一応聞いてみた。従者たるトーテムとしての使命感のなせる業である。

「えっと、河に来たらちょうどすぐ傍に美味しそうな…『果物』がなってたんだけど、食べられるかどうかわかんなくて。どうしようかなぁって思ってたらこの子たちが来たから、一つ食べさせてみたの」

 理解不能な論理で動く少年をぶっ飛ばしたいと思ったのはもう何度目だろう。レオニスは遠くなりそうな目を現実に引き戻した。

【…そうしたら懐かれた、と】

 野生の獣に近づけば、どう考えても襲われると思うのだが。なんで懐かれるのだ。

 道に迷うわ常識はないわその上に大物なのか馬鹿なのか。これで主は生きていけるのかとレオニスは心配になった。誰だこいつに世界を救えとか言った奴。もっと相手を選べ。

【……もういい。遊ぶのはほどほどにしてさっさと水を持っていって寝ろ。火はつけるなよ。獣が寄ってきたら困る】

 じゃれつく野犬の首元を名残惜しそうに撫でて、アークは立ち上がった。

「『りょーかい』」



 集めた枝を敷いた上に葉っぱをかぶせて枕代わりにし、身に纏っていた紺色のマントに包まりながら、アークはその晩、レオニスからトーテムについての説明を受けた。



 ひとつ。トーテムとは、人に宿る《精霊》であり、それぞれの特性に応じた力を与える存在であり、トーテムの憑いている人間――《精霊憑き》の力は、常人とは比べ物にならないこと。

 ふたつ。それゆえに、この世界での治安維持など戦闘力の求められる職種では、その多くが《精霊憑き》の存在を前提としていること。

 みっつ。またトーテムは人の『血』に宿ると考えられていれため、《精霊憑き》は子孫を残すことが求められていること。

 よっつ。《精霊憑き》の数と質はその都市の国力――都市力?――に直結するため、国の管理下に置かれる事が通例であること。

「レオニスはこの『国』がどんな風なのか知ってるんだ?」

【いや、我が知っているのはあくまでもトーテムのみの知識だけだ。…この国が今どうなっているかは正直検討もつかん。長らく現世を離れていたからな…】

「…あれ、じゃあ僕の前にも、誰かを『ますたー』に持った事があるの?」

【――大昔の話だ。忘れろ】

「…うん」



 ぶちまけたように盛大に豪奢に星々の光る夜空が、木々の間から見えた。



「ねえレオニス」

【なんだ】

 言葉を探す。どういう仕組みかまだよく分からないが、探している言葉は自然と意識の表面に登ってくる。

「今日は、『道』に迷って…えっと、『ごめんね』」

【――別に我は困らん。…だが、明日は我の誘導に従って動け。そうせんといくら時間が経っても森から出られん】

「……。」

【――どうした?】

「こういうときは…なんていったらいいのかな?」

【…我が知るか。早く寝ろ】



「――そうする。『おやすみ』」

【…ああ】



 眠る前にかけられる声は、自分が一人ではないと教えてくれる。

 今までは叶わなかった願いが一つ、叶ったような気がして、どうしたかあたたかい気持ちになった。

 ふわりと、意識の表面に探していた言葉が浮かび上がる。

 

「……『ありがとう』。レオニス…」



 ――明日も何かいい事があるかもしれない。

 まどろみながら、名を手にしたばかりの少年はそう思った。



 

                       ◆







 少し時間を戻し、アークがいまだサーショがどこにあるかわからずにおろおろしている頃。





 この天空大陸の政治の中心、王都バーンにそびえる王城【バーン城】の執務室で、一人の男がひっそりとため息をついていた。

 光を受ければまばゆく輝く金糸の髪に、晴れた空を写した碧の眸。傾城の美女と名高かった母親に良く似た整った美貌には、しかし隠しようもない疲弊の色がはっきりと見える。 

「――ただでさえ近頃の『魔族』の暗躍で忙殺されているというのに……いや、だからこそこの事態、と捉えるべきだな」

 こぼれた呟きとその表情ははひたすらに重い。

 もういっそずぶずぶと沈み込んで世界の裏側まで到達しないだろうか。いやその前に天空大陸から落ちて死ぬ。

 そんな後ろ向きもいい所な彼の思考を、

「あっはっは。大変だなぁ陛下。シゴトシゴトの連続で王様かつ超のつく美形なのにいまだ独り身。しかも他都市からは不平不満の嵐。オマケに愚痴れる部下は俺くらい」

 …無意味にハイテンションな声がばっさりと切り落とした。

 山と積まれた書類を横目に、男――第三十二代国王、アストフィラキス=ウル=バーンはもう一度ため息をつく。

「…やっと来たか。ディナス」

「『やっと』て、俺はムーから来てるハゲオヤジの嫌味と懇願という嫌過ぎるダブル攻撃を捌いてたんですけど。それも陛下の命令で」

 王国宰相、ディナスフレア=ケイナス=アグリーシア。
 稀有な深緑の瞳と、肩まで伸ばされた癖のある褐色の髪。飄々として相手に真意をつかませない道化た顔の裏に、鋼より強靭な刃の鋭さを秘めている切れ者。
 年齢は自分よりさらに若いが、その実務能力と判断力洞察力は、おそらく天空大陸随一だろう。

 軽口で場の空気をかき回し、舌先三寸で相手を丸め込み、口八丁手八丁で王都の要求を押し通す、道化の仮面をかぶった策士。
 主君であり幼馴染でもある自分でさえ、彼の『底』を感じたことがない

「あのご老体なら、シスカあたりに相手をさせておけ。そのうち再起不能になる」

「……。…時々思うけど、あんたよく王様やってこれたよな…。外交問題になるからそれは」

 外交問題。国が一つしか存在しないこの世界で矛盾するような言葉は、しかしこの国の内情を如実に表していた。

 ーーこの世界には、およそ五つの大都市が存在する。

 大陸随一の鍛冶屋や技術者を多く抱え、国中の武具や農具の生産、建築物の建造などを一手に抱える【鍛造都市】サーショ。

 かつて理力と呼ばれていた力を解明し、より洗練された形態『法力』にまで昇華させた者たちが作り上げた学究の都、【法力都市】リーリル。

 一度は戦乱によって壊滅させられながらも数多くの人間の尽力によって復興し、どの都市よりも人間と竜人の交流が盛んな【信仰都市】シイル。

 五百年前の『竜人の和議』以降、『隠れ里』にいた理力研究者の多くが逃れ、理力とは別の不可思議な技術体系を発展させるに至った【魔術都市】ムー。


 そしてこの四大都市をつなぐ中継地であり政治の中心地であり有事における人類最後の砦でもある――五大都市の盟主たる【王都】バーン。



 このうちシイルを除く四都市には統治者としての王家・侯爵家が存在し、各都市において絶大な権力を保有する都市国家連合の様相を呈している。
 国家機構としては他の四都市が王家に服従している形だが、決して王家が絶対的な権力を握っている訳でもなく、むしろ一都市一都市が王都に匹敵する力を持っている。
 そして四大都市の力を排除しようとした王は、決まって非業の死を遂げる破目になるのだ。
 ――自分の、父親のように。

 「ま、あのハゲの話は置いといて。一体今度は何があった?お前直属の『影』をわざわざ動員してまで俺を呼び出したんだ、――よほど周りに知らせるとまずい話か?」
 「――いや、いずれ皆にも知らせねばならんだろう。だが入った情報が事実なら、この国に与える影響は計り知れん。……明朝、緊急会議を開く。その前にお前の意見が聞きたい。…今朝、信仰都市シイルの《巫女》と、あの街の竜人の長から連名での緊急通達があった」

 「…竜と人を繋ぎ、神の意を識る《巫女》から、ねぇ。随分と…最悪らしいな」

 主君から呼び出されてもなお笑みを含んでいた双眸が、ほんの僅かに強張った。
 彼も知っているのだ。政治には不干渉の《巫女》が動くとき――それは。


 とりもなおさず、この国の根幹に、異変があったということなのだと。

 「彼らの『神』…海底の神殿にいるはずの、『竜神』との連絡が…途絶えたそうだ」

 果たして、若き王の告げた知らせは――紛れもなく、最悪に類するものだった。



 こうして、世界は軋み声を上げる。

 いつか犯された罪の償いを求めるように。

 どのような未来が彼らを待つか、今知る者は少ない。

 だから、願わくば。

 今は何も知らぬ少年に、安らかな眠りがあらんことを。



 6. いつかの会話と今終わる夢


―――


 『力』を封じられ、動く術を奪われ、誰も立ち入ることのない神殿の最奥で、彼女はそれでも意識を保っていた。
 いずれ必ず訪れるだろう転機に対応するために。
 感覚を閉ざすことも、感情を鈍らせることも、精神を摩耗させることもせず。
 ただ――静かに、待っている。
 
 意識を研ぎ澄ます一方、それでも精神の一部はこの状況に閉塞を覚えて逃避を試みる。
 そうして意識の一部が向かう先は、過去の記憶。
 もっとも心地よいと感じる過去の、再現。 
 (―――いえ、それだけではない、でしょうか)
 そしてきっと―――自分のハジマリ。
 
 『彼』と一緒に、地上を旅して、笑って、怒って、泣いて、戦っていたときの、――記憶。

 ――それは、ずっとずっと昔に交わされた会話。


 
                     ◆                        



 ぱちぱちと焚き火のはぜる音を聞きながら、寝転がって空を見上げる。この世界に来た最初の日に見た、あの溢れんばかりに輝いていた星々の光は、雲が出ているためか今は見えなかった。そのことを、少しだけ残念に思う。

 

 ――今日が最後の夜になるのに。



「――■■■■さん」

 呼びかける声に、身を起こす。柔らかな光を宿した紅玉の眸が、静かにこちらを見つめていた。

「なに?《スケイル》」

 この旅の最初からずっと付いてきてくれた、人ではない友人。幾度も助けられ、幾度も共に死線を超えてきた仲間。

「…眠れないんですか?」

 この世界のトーテム能力者は、必要とあらば睡眠を取らなくとも活動できる。だから今も、無理に眠る必要はなかった。苦笑して返す。

「ちょっと眠る気になれないだけだよ」

 その答えを聞いて、果敢なげな面差しに僅かな翳が差した。彼女は仲間内では唯一、彼の来歴を知っている。だからこそ、この最後の戦いにも連れて行く事ができた。

 

 彼女は知っている。この戦いが終わったあと、彼がどうなるのか。



 …だからといって、その事についてスケイルが何かを言うわけでもない。お互いその結末を受け入れた上でこの世界に降り立ち、その手で少なからぬ命を手にかけてきた以上、覚悟はしておかなくてはならないのだから。

 気を遣わせているのはわかっていたから、口では別のことを言った。 

「ねえスケイル――僕はね、楽しかったよ」

 口をつくままに、笑いながら告げる。

「僕はいつも、自分のやってる事が正しいかなんてわからなかった。この世界に来る前も、そして来てからも」

 それは彼を構成する真実の一端。人を殺し人に殺される存在ゆえに抱える葛藤。

 事態がこの期に及んでなお、自分が確実に『正しい』という確信は、ない。 

 でもこれだけは胸を張って言える。



「でもね…こうして身体を与えられて、もう一度生きる事ができて――良かったと、心から思う」



 この世界に来てからの、ほんの二週間足らずの時間は、――とても楽しかった、と。



「この世界で僕のしてきた事が正しいかはわからない。もしかしたら僕の知らないところで、気付かないところで、取り返しのつかない事をしてしまっているのかもしれない。これから僕らのしようとしている事がどんな結果に終わるのか、それも判らない」

 そう、自分のしようとしている事を成し遂げたところで、それで誰もが倖せになれるとは思えない。あるいはより大きな争いの火種を、未来へ残す結果に終わるだけかもしれない。

 

 ――それでも。



 自らも封じられながら、どうか『神』を止めて欲しいと言っていた魔王。

 生を望みながらも、消えるべきは自分たちだと言っていた竜人の長老。

 『神』を疑いながら、それでもその命に殉じて斃れた誇り高き戦士。

 人から受けた仕打ちにも関わらず、人間である自分を慕ってくれた幼い少年。

 同胞のために、ともに『神』を倒そうと申し出てくれた人ではない友人。



 この世界で出逢った竜人達は、人と変わるところなんて、なにもなかった。



 無事に帰ってきてください、と言ってくれた彼女。

 どうかこの国を救って欲しい、と言った旅人の青年。

 豪快に笑って、一人で背負いすぎるなと言ってくれた戦士。

 いつだって冷静な頭脳で自分を助けてくれた理力使いの女性。

 ひひひと怪しく笑いながら助言を与えてくれた占い師の老婆。

 必ず守ると約束して、だけど守りきれなかった予言者の少女。



 この世界で出逢った人間達は、数えきれないほどたくさんのものを自分にくれた。

 だから思う。
 この世界で出逢った人間も、竜人も、誰も――憎しみも滅びも、望んでいないと。


 滅ぼしたり、憎みあったりする以外の方法がきっとある。

 だから彼は、思いを同じくする仲間と共に『神』を止める。



 世界全てを救うことなんて誰にも――少なくとも自分たちには、できない。

 全てを成し遂げられると思うほど愚かにもなれない。未来を救えると思うほど傲慢にもなれない。

 だけど、どんなに浅はかで傲慢だと言われても。どんなに愚かで救いがたいと謗られても。



 …誰もが、誰かと一緒に生きていけると――そう信じることすら否定することだけは決してさせない。



 「僕にも何が正しいかなんてわからないけど、もし皆が、明日目を覚ました時に、ああ生きてて良かったって思えたら、」

 そう――あの人達が笑顔で明日を迎える事ができるなら。



 「それはきっと、間違ってないって――そう思えるから」



 人でも竜人でもない彼女は、そうですね、と言って、やっと笑ってくれた。



 それは英雄の物語。

 今はもう誰も名前を知らない、一人の若者の旅の軌跡。


                     ◇

 

 天空大陸の東、孤立した浮遊島の地下には、国によって秘匿された遺跡がある。

 その遺跡のことを知る者は少ない。その遺跡が何に使われているかを知る者は、さらに少ない。

 国の枢要に関わる職にある者か、世の闇に埋もれた古文書を紐解く【忌賢者(アルハト)】でもなければ、そこで過去どんな事が起こったか知ることはない。そして知ったとしても、その知識を口外して生きていられる者はいない。

 

 ――たったひとり、【託宣者(オラクル)】を除いては。



                        ◆



 黒く磨きぬかれた魔輝石の床には傷一つなく、この神殿を造った当時の工匠たちの腕の良さがはっきりとわかる。ここの造営が終わった時点で機密保持のため全員幽閉されたらしいが、世に出続けていればもっと多くの傑作が生まれたかもしれない。所詮は仮定の話だが。

 くだらない思考を振り捨てて、前を見据える。深い深い闇に浮かぶいくつかのぼんやりとした光は、その闇の深さを際立たせる役目を果たしているようだった。

 視線の先にあるのは、黒い何か。宙に浮かんでいるようにも見えるそれは、闇の中にあってなお一層昏く、『光』というモノを拒絶しているようにも見えた。

 ――彼こそが、この神殿の主。この箱庭に残った原初の神の一柱。

 「やあ、久し振り」

 朗らかに笑って、言う。実際彼に会うのは久し振りだった。相手にとっては刹那の時間にしか過ぎずとも、脆弱で有限な命をもつ人間にはその限りではない。

 「――『立法者』が動いたよ。また『転換者』を招聘したらしい。予想範囲内ではあったけど…ぜんっっぜん変わってないよねぇ。自分が何にもできないからってすぐに人を駒にしようとするところとか。行動パターン丸判り。自分でもどう転ぶかまるでわかってない駒を手駒にしてヘーキな顔して神様やってるんだから大した強心臓だよ」

 話し掛けている相手は何の反応も返さない。聞いているのかと思うような態度だが、聞いていないということはないだろう。反応を試すつもりで、水を向けてみる。

 「まあ原初の《三柱神》のうち『裁定者』――白竜神の後継はもう封じたし、そもそも現世に長い間顕現してたから、彼女の持ってる力は殆どなくなっちゃってるだろうね。たいした障害にもならないだろうさ。あと気になるのは…」

 そこで、僅かに言葉を切る。

 やはり、ソレからは何の反応もなかった。

 「『立法者』が権限譲渡した『監視者』と、『裁定者』――最初の竜神が遺した『調整者』の動きかなぁ。前者はともかく後者は、敵になるか味方になるかもわからないけど。…ねぇ、どんな気分?自分の仲間がどんどん封じられて、自分がシナリオどおりに動かされていくのって。やっぱりヤな気分?それとも案外気持ちいい?」

 返事はなかった。それならそれでよく、笑う。

 「ねえ、どうして貴方は人間である僕を眷族にしたんだい?知恵の実を喰べて箱庭の楽園を放棄した時から、僕達は貴方達を裏切り続けてきたのに。それとも裏切られることさえ、貴方は織り込み済みだったのかな。人の罪を断ち切る事は、人にしかできない――そういって僕を『託宣者』にした時、君は知ってたはずだろ?僕がどんなに君たちを嫌っているか、なんてさ」

 ひとくさり言い終えても、彼からは何の返答もなかった。かるくため息をついて天を仰ぐ。
 その拍子に、前髪が目にかかる。銀の髪――忌み嫌っていた血の、証明。

 ガランドウの空に写っているのは、またたくこともなく浮かんでいるいくつもの光。星を騙った光と夜空を模した空虚は、馬鹿馬鹿しいほど『この世界』を表しているようだった。

 「……くす」

 笑う。

 嘲う。

 嗤う。

 それ以外の全てを、忘れたように。

 「――千年だ。もういいでしょう?『立法者』。どんな物語もいつかは終わる。永遠は願えば近づけるけど、それに触れることは誰にもできない。奇蹟ももう終わっていい頃だろう?」

 憎しみと愛しさを込めて、そっと名前を呼ぶ。

 憎い憎い、仇の名を。



 「ねぇ――リクレール」 



 ずっと前に始められた喜劇は、予定されていた終わりへと収束する。

 それは決められた結末。覆せない未来。

 けれど、その結末の先に手にしたいものがある。叶えたい願いがある。

 ――全ては、たった一つの望みのために。
瀬田幸人
2009/07/01(水)
20:50:33 公開
■この作品の著作権は瀬田幸人さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのコメント
同盟のコンテンツを一新されたとのことで、旧BBSに投稿したものを少し手直しして再掲載させていただきました。瀬田幸人です。
まだまだ拙い作品ですが、時間つぶしにでも読んでいただけると幸せです。

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