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この世界には、三つの英雄伝承歌《ヒロイックサーガ》がある。 災厄に震える人々の前に降り立ち、精霊の力をもたらした一角獣の女神の物話。 女神に与えられた武器を携え、暴虐を働く魔王を滅ぼした剣聖と賢者たちの物話。 そして、五百年に渡る竜人と人との争いを終わらせ、世界に平和を取り戻した、一人の若者の話。 誰もが知るその物語。けれど名もなき英雄のその名は、伝わっていない。
◇
かつて一角獣の女神が降り立ち、精霊の力が人に与えられて千年。 人と竜人は和平を結び、共存の道を歩み始めた。 言葉が交わされ、思索が続き。ときに不穏の火種がくすぶるも、時代時代に生まれたものたちは、争いよりも平穏を選び取り。いつしか隣に在る事が当然の、隣人として。苦難の折には助け合う、同胞として。互いに互いを認めるようになった。 平和が続き、数多の命が為され、国は拡がり――そうして、決壊の音が響き始める…。
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「時が来た、ということでしょうか……」 確信と、哀しみのこもった呟きが、その紅唇から零される。 ゆるやかに波立った碧の髪、額に戴く真紅の宝玉と同色の、赤の双眸。陽に当たることを知らぬ白磁の肌。もし『精霊憑き』の素質がある者がその場にいれば、その身に宿る尋常ならざる『力』にも気付いただろう。 しかし、その場には彼女以外誰もいなかった。 「――《三柱神》と称されたモノの内、白竜神は既に滅び…その後継たる私も封じられた。なら、あの方はきっと同じことを繰り返す。自分の世界を、護るために」 悲痛と、やりきれなさと、喪失感に苛まれた表情で。
「どうかお願い…もう、あんな悲劇を繰り返さないで下さい――リクレール様」
誰にも届くことのない懇願が、ゆらり、と赤の双眸を揺らした。
◇
……たい、痛い、 痛い、 痛い…!!
泣き叫び懇願しても、殴打は止む気配を見せない。何度も何度も、執拗に、衝撃が加えられる。 痛覚は半ば麻痺し、意識も朦朧としている。自身の酷い有様に、ふと淡い思考が頭を掠める。
――これで、死ねるだろうか。今日で、終わりになるだろうか。
そうなってしまってもよかった。何故生きているのか、何故死なないのか。何度も言われた。おまえがバケモノだからだ。何度も繰り返し繰り返し焼き付けられた。明確に拒絶された。お前なんか死ねばいい。生まれた時から言われ続けただろう言葉。誰もおまえなんか要らないんだから、早く死んで。「あの人」はいつもそう言って殴った。鬱陶しいから、私の前から消えて。何も言わない時でさえ、瞳がそう訴えかけた。 要するに、この人は自分が嫌いなのだ。殺したいぐらいに憎いのだ。 …だったらそれでいいと思った。生きたいなんて思わない…もう、疲れていた。
しかし自分の思いとは裏腹に、口からは悲鳴が漏れる。懇願が飛び出す。
…痛いよ、やめてよ、おかあさん・・・!!
ふっ、と――殴打が、止んだ。 え、と。腫れ上がった顔を上げる。そんな馬鹿な――「あの人」が自分の言葉を聞くなんてありえない。そんなことはとうに諦めていた。否、自分という忌まわしい存在について諦めていないことなんてない。だけど。 僅かに、裏切られてもいいようにほんの小さく、希望を抱く。さっき刹那抱いた願望とは真逆の希望。 もしかしたら。もしかしたら。もしかしたら。 頭の中を、その言葉だけがぐるぐると回る。
――いま、なんて言ったの……?
え、と今度は口に出してしまった。さっき自分の言ったことを思い返した。 何度も殴られたせいで血の上っていた顔から、血の気が引いていくのがわかった。 自分が最悪の失敗をしたこと――禁句を発してしまったことを悟る。
――わたしの人生を滅茶苦茶にした化け物の癖に、なんて言ったかって聞いてるのよ!
自分のあまりの失態に硬直して、激しさを増すだろう折檻を待つ。…わかっていたことだった。この人は「自分の人生をズタズタにした化け物」が憎くて仕方ないのだ。殺したいほどに。
――おまえがいたから。おまえのせいで。
いつも、子守唄代わりに聞かされてきた呪詛。浅い眠りと言う僅かな平穏をすら侵食してきた、嫌悪と侮蔑に満ちた言葉。…それにさえ、今は慣れてしまったけれど。
首に、手のかけられる感触。
抵抗しようなんて気は全くなかった。逃げ場など元々ないのだから、抵抗したところでなんになるというのか。 …居場所など何処にもないのだから、生きていたところで…否、死なないでいたところで、いったいなんになる…? ――そう、頭では思っているのに 。 なのにどうして、自分の腕は見苦しくもがこうとしているのだろう。ぎりぎりと締め付ける圧力を前に、どうしてこの肺は空気を求めてあえぐのだろう。生きようなんて思っていないのに。早く死にたいのに。 ――自分の名前を呼んでくれる人なんて何処にもいないのに。 どうして自分は、誰かに『助けて』なんて言葉を放っているんだ…?
…や、だよ…かあさ…っ ! もがく。目の前にあるのは『あの人』の無表情な顔。長年抱え続けた憎悪と怨恨に醜く歪んだ、幽鬼のような顔。
――死ね、化け物。
小さく、頬を歪めて嗤うその姿に、 もうなにもかもを、諦めて、手放そうとして。 けれど相手の右手に握られている鈍い煌き見てを見て、また希望を抱く。
『 ねぇ、 おかあさん 』
彼は、自分の左胸に短刀が振り下ろされるその刹那
『 この《心臓》が無くなったら。
もはや夢とも呼べない淡い幻想を抱き 『 愛 し て く れ る ? 』 そして、打ち砕かれた。
◇
打ち砕かれた幻想はそのまま自分を貫き縫いとめる楔になって。 自分の作りあげた檻の中、ただ呼吸をするだけの死骸となって彷徨い続けた。
何かを望んだりは、もうしないと決めた。 だから、手を差し伸べられた時。 どうしてその手を取ってしまったのか、彼にはわからなかった。
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