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意識の海のほとり 語り手 クロウ
体を伏せたまま天空大陸を遠くに見つめ続け、いったい幾日になるのだろうか。 その世界は明るくなったように見える。その穏やかな暮らしは、まるで以前から続いていたかのように平穏そのものだ。 何にも代え難い平和な世界。その世界を作るために消えた物が二つある。 一つは竜人。確かに人間を脅かす物だった。だが、共存の道はあったのではないかと不意に考えてしまう。そのうちに文献や伝承にのみ伝わる存在になるのだろうか。だとすると、とても悲しいことのように思う。 そしてもう一つは。
――ゴンベエ。今の我を見たらお前は笑うだろうか。
ある青年のことだ。 不意に現れ、各地を回り、そして来たときのように突然行方をくらました。 ゴンベエがなしたことを全て知っている者は、大陸には存在しないだろう。 リクレールたちを含めても、ゴンベエの為したことを知っているのは我だけだ。 別れの日、他に告げるべき者がいても良いはずだった。 それなのに我に特別に別れの言葉をかけてくれた。消えゆく定めに従って精神だけの存在となりつつ、トーテムである我と限りなく近くなった最後の瞬間。無言で抱きしめられ、首に回された腕の感触を今でも覚えている。 意識の海に目を向ける。ただ、美しいだけの世界が見えた。もしかしたら、そこからひょっこり出てきそうな気もするが、そのようなことは起きるはずもないと思い直して大陸に視線を戻す。 何故我が見ている世界にゴンベエが居ないのだろう。 元々はそこに居なかったはずなのに、ゴンベエが居ないだけで酷く不完全なように思える。 それでも、我はこの世界が好きだ。 ゴンベエとともに回った世界。この時代、この世界の人間をもっと見ていたい。
ふと、背後にリクレールの気配を感じた。 「クロウ、やはりここに居たのですね」 ――ああ。休んでいたはずではないのか?身体は大丈夫か? リクレールは最近体調を崩している。やはりゴンベエを送り込んだことで力を使いすぎたのだろうか。そう考えると、少し悪いと思ってしまう。 しかしそう言うと決まって”私が出来なかったことをかわりにやってもらっただけです”と笑いながら言うのだ。 「大分楽になりました。そろそろ大陸の様子を自分の目で確認しようと思いまして……ずっと任せてしまっていて済みません」 ――気にすることはない。我はもっと良くこの世界を見ていたいのだ。 リクレールはそうですか、と微笑みながら呟いた。それから何か考えるように目を瞑り、ゆっくりと口を開いた。 「一つ頼まれてくれませんか」 膝をつき、視線の高さを我に合わせるリクレール。何事か重大なことなのだろうか。姿勢を正し、正面から見据える。 ――なんなりと。我に出来ることならば。 「届け物をお願いしたいのです」 ――……重要なことなのか? 重大なことだと思ったのだが肩すかしを食らったようだ。 もっとも急いでいるのでなければフェザーよりも我かスケイルが運んだ方がいいだろう。理にかなってはいる。 「ゴンベエさんがお借りした道具の類を……あの天空大陸まで届けに行って欲しいのです」 すぐに返答が出来なかった。一体どういうことだろうか。リクレールの表情は柔らかくて穏やかだ。 「私が直接行くのは大変ですし、フェザーでは重すぎます。スケイルはまだ地理に詳しくありません」 それに竜のような体を与えるのが大変ですしね、と付け加えた。 不意にリクレールの真意を悟り、驚きを隠せなかった。 ――それは……またあの大陸に立てると言うことか? 願ってもないことだった。 今度は自分の足であの大陸を歩くことが出来る。ゴンベエとともに歩いた道を自分の力で行くことで、ゴンベエが感じたことを本当の意味で理解できるかも知れない。 断る理由はなかった。 ――その仕事、確かに引き受けた。感謝する。 短く、最大級の感謝を込めて礼を言った。スケイルやフェザーならもっと気の利いた言葉が出てくるのだろうか。だが我にはこれが精一杯だ。そのことをリクレールは分かっていたのだろう、目を細めて嬉しそうな表情をした。 「お礼は必要ありません。借りて時間が経っている物ほど返しにくいでしょう。大変なのに押しつけてしまうのですから……」 それに、とリクレールは付け加え、視線をずらして微笑みを消した。直前まで冗談めかして言っていたのに、急に表情が曇る。 待つことには慣れている。辛抱強く次の言葉を待つことにした。 「今の私では……あなたにトーテムとしての命が続く限り持続する、そのような体を与えることは出来ません」 その口調は悲しそうで。そして申し訳なさそうで。 己の力不足で誰かの幸せを維持できない……そんなことを嘆くような顔だった。 このようなリクレールの表情を見ることは、悔しいがしょっちゅうあった。天空大陸で誰かが病に倒れ、剣に倒れるたびに我が事のように嘆き悲しんでいた。 リクレールはそれだけ天空大陸が好きなのだ。己が作り出した世界を嫌いになれるはずがない。その世界での不幸を、我が身と変えてしまってもいいほどに思っているのだろう。
だが悲しむときに一人では辛いはずだ。何かを嘆くとき、一人である必要はない。一人ぐらいその苦しみを共有できる者がいて良いはずだ。 同じくらい大陸を好きになり、同じくらい喜びと悲しみを分かち合える者。 ……今の我では、まだ足りないかも知れないが。
「ですから……」 ――我は。 リクレールの言葉を途中で遮る。思えば我がこのような行動をとったのは初めてだったのだろう、リクレールが驚いて我を見つめる。 ――我は感謝しているのだ。例え歩ける時間に限りがあろうと、その気持ちはどうして変わろうか。 我という存在を作り、心を与え、クロウと言う名前を付けてくれた。そして我の感情を読みとって体まで与えてくれるのだ。感謝以外にどのような感情を抱けばいいのか。 さすがにクロウではなくゴンベエと名付けられたらそれなりにぐれただろうが。 ――だからな、リクレールが気に病む必要はないのだ。 もっと上手いことが言えればいいのだが。それでも必要なことは伝えられただろう。ゆっくりとリクレールの表情も穏やかな物になっていく。 「保って15日……何の因果か、ゴンベエさんと同じですね」 それだけあれば十分だ。 「命の欠片は無理ですが……人と獣の言葉を理解できる能力を授けておきます。しっかり持ち主の所に返してくださいね」 リクレールはどこか演じるかのような声色で……ただし微笑みながら、懐かしい言葉を紡いだ。 「これが身勝手なお願いかも知れないという事は、分かっています。これまでに説明した私のお願い、聞いていただけますか?」
無論。答えは決まっている。 ――はい、もちろん。
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